特集/本誌より

能登の空路を守り抜いた、ANAスタッフたちの記録【前編】 〜2024年1月1日、最大震度7の能登半島地震発生。あれから8か月後の証言〜

2024年元旦、最大震度7の大地震が能登半島を襲った。その中央部に位置する能登空港にもその震災は容赦しなかった。
発災当日の能登空港では何が起きたのか。その後の能登空港は、能登線はどう復旧したのか。実際に能登空港へと飛んで、関係者のお話をうかがい、被災からANA機が再び飛ぶまでのドキュメントをまとめた。

※本記事は月刊エアライン2024年10月号特集「徹底研究する、ニッポンの国内線」から転載したものです(登場人物の役職などは8月の取材時点)。令和6年能登半島地震、またこの度の豪雨災害で被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

文:伊藤久巳 写真:伊藤久巳
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取材した8月1日、ANA747~748便として折り返すため能登空港のエプロンに駐機中のA320neo(運航再開初便は737-800)。1月1日にはこのエプロンもターミナルビルも、最大震度7の大地震に見舞われた。

1月1日16時10分、その時、ANA749便が最終進入中だった

 2024年1月1日、16時06分。能登半島で震度4の地震が発生する。この時、能登空港ランウェイ25にはANA749便、ボーイング737-800が能登情報圏を最終進入中だった。この地震で管制はランウェイチェックが必要と判断し、航空管制運航情報官はANA749便に対して能登空港上空でのホールディングを指示した(ANA能登空港所・嶽 承子 所長の言葉から状況を推定)。
 その時だった。能登半島を最大震度7の大地震が襲った。16時10分、能登半島地震の本震だった。

「立っていられないほどの揺れが長い時間続きました。揺れが収まると、ターミナルビルの電源が失われて、館内はほとんど真っ暗な状態になっていました。すぐに東京のOMCオペレーションディレクターにANA749便の受け入れ不能を電話で告げ、折り返しのANA750便で出発のお客さま、お見送り、お出迎えのお客さまの屋外避難誘導、スタッフ全員の屋外避難を指示しました」(ANA能登空港所・嶽 承子 所長)

 OMCとは羽田空港にあるオペレーションマネジメントセンターの略で、ANA便のすべての運航をあらゆる面から統括する部署のこと。嶽所長はそのOMCオペレーションディレクターに一報し、ANA749便の受け入れ不能を伝えたことで、OMC運航管理者は羽田ダイバートを決定。OMCからコクピットに的確な指示が送られ、ホールディングしていた737-800は管制機関と調整の上、まもなく羽田に引き返している。

 真冬の能登地方の16時半。付近は停電によって漆黒の闇が訪れようとしている。ANA750便に乗る予定だった人と見送りに来た人、ANA749便の乗客を迎えに来た人は合計約300人。ターミナルビルの被害状況がわからず、安全確認もできないため、館内には立ち入ることができず、また警察官から空港周囲の被災状況が不明のため空港から外に出ないようにとの指示があった。このため、全員が駐車場にしゃがんで、収まらない余震に堪えていたという。

「日が暮れると一気に寒くなってきましたから、車がある方は車に、ない方は空港内にいた大型バス3台とマイクロバス2台に避難していただきました。同時進行でテーブルを出して受付を作り、石川県やターミナルビル会社、ANAで備蓄していた毛布、水、アルファ米、乾パンなどを皆さまにお配りしました。能登空港ターミナルビルは防災道の駅という位置付けでもあり、こうした備蓄が豊富にありました。このほか、道の駅には簡易トイレの備蓄もあり、これを皆さまにお配りしています」(嶽所長)

 能登空港ターミナルビルは避難所に指定されていたわけではないが、県の防災拠点でもあり、またANAの高い危機管理体制もあって、即席の避難所として機能することになった。さらにすばらしい偶然もあった。

「ANA750便にお乗りになるはずだったお客さまの中に、お医者さまが二人いらっしゃったのです。そのため、県備蓄のテントにより、医療テントを設営することができました。寒かったこともあり、さまざまな症状を訴える方も多く、とても助かりました。足元を照らすため、レンタカー会社も車両を出してくださいました」

 余震が続く中、空港周辺の人々も高台にあって、津波災害の心配がなく比較的安全な空港に集まり続け、その日の空港駐車場での避難者は合計600人ほどに達した。その一人ひとりにANA能登空港所では毛布、水、食料の対応を続けた。

通称「のと里山空港」と呼ばれる能登空港。ターミナルビルは被災し、発災当日は館内に入れなかったが、安全確認がとれた翌日からは制限付きで内部に滞在できるようになり、非常電源が立ち上がった。
そのおかげで館内のトイレが使用できるようになり(トイレ洗浄水は元々雨水を再利用)、Wi-Fiが非常に有効な通信手段となった。また、防災道の駅という位置付けとして、毛布、
水、食料、簡易トイレの備蓄も十分にあり、ANA備蓄の毛布とともにとても有効に使用された。
発災当日には多くの車両で埋まり、600人が避難した駐車場。取材時にはターミナルから至る歩道の装飾が震災により倒れたままだった。ターミナルビル前の歩道も目で見てわかるほど路面が隆起していて、震災の凄まじさを知る。
ANA能登空港所長の嶽 承子(だけ・よしこ)さん。

非常電源が立ち上がった翌日。オペレーションサポートセンターのスタッフが能登空港入り

 発災翌日の1月2日、ターミナルビルの安全確認が済み、夕方までに業者が入って非常電源も立ち上がった。ビルは一部にガラスや壁の破損があったものの、区画を限定すれば安全という判断だった。

「到着ロビー、搭乗待合室、バゲッジクレームなど限定ですが、館内に入れるようになりました。水道は復旧していませんが、手などの消毒には新型コロナ対策のために用意していた消毒液がありましたので、これを使用していただきました。電源の復旧により、館内のWi-Fi、通信手段が確保され、震災の有力な情報源となる館内のテレビが点くようになり、そして元々施設の屋根に降った雨水を洗浄水に使用していたトイレが利用可能になったことが大きかったです。また、いろいろな事務所からポットを集めお湯を沸かして、皆さまに温かいアルファ米を作って供給することもできるようになりました」(嶽所長)

取材時、ターミナルビル1階の天井部では、2階への階段、エスカレーターのつなぎ部分などの補修工事が行なわれていた。
ターミナルビル2階からANAチェックインカウンターがある1階を見る。ビル内は一部のガラスや壁面が破損したが、大規模な損壊はなく、発災二日目から避難場所として使用された。

1月3日には現地の状況把握とサポートおよび一日も早い運航再開に向け、羽田のオペレーションサポートセンターからスタッフが能登空港へと陸路到着する。カウンターの端末、保安検査機器、ベルトコンベア、ボーディングブリッジ、トーイングトラクター、リフトローダー、ディアイシングカーなどすべての機材、機械に異常がないかを点検し、補修するためだ。

「機体が安全に発着できる状況かどうか、ANAグループの各担当部署により点検しました。空港車両や通信系統などは問題ありませんでしたが、一部修復が必要な箇所については作業を行ないました。通信手段は電話回線が使えないものの、ターミナルビルのWi-Fiが使えたことで、インターネット回線で連絡を取ることができました」(ANAオペレーションサポートセンター 空港サポート室 空港マネジメント部 国内空港チーム・古谷圭司リーダー)

 また、降雪時の対策として、水(雨水ではない上水)がまだ開通していないので、「ディアイシングカーがADF(除氷液)の希釈のために使用する上水確保のため、給水車も手配しました」(嶽所長)
 一方で、空港ターミナルへの取り付け道路を小型のバスが通れるようになったため、「マイクロバスを手配し、ANA750便に乗られる予定だったお客さまから金沢市内にお送りしました。この日以降、避難されている方々の人数は徐々に減っていきました」(嶽所長)

 まだ手探りではあったが、空港に避難する人々の支援を続けながら、ANAは運航再開に向けて少しずつ前進していく。

お隣、小松空港のスタッフにより届けられた全国からの能登空港応援メッセージが書かれた横断幕。

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滑走路の復旧工事が始まり、運航再開に向けた協議を開始

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