特集/本誌より

JAL機長が想いを込めた “本気”のパイロット訓練体験 10daysで、ボーイング767の操縦と自分自身に向き合う

本企画を実現させたJALボーイング767の大橋機長ら、そして参加者の心には“訓練体験”という言葉だけでは語れない想いがあった。座学からフルフライトシミュレーター(FFS)まで、10日間にわたるプログラム。かつて憧れたパイロットという夢を実現できなかった人たちに向けて、“本気”の訓練を提供した。

文:阿施光南 写真:阿施光南
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本物のJAL機長が、本物のFFSで教える。そのお値段、250万円

 旅客機のシミュレーターは、かつてほど遠い存在ではない。日本各地には一般向けのシミュレーター体験施設があるし、航空会社が自社の訓練用シミュレーター(FFS)を体験させるツアーやイベントもある。しかしジャルパックが今年2月から販売した「“本気”のパイロット訓練体験 10days」は、それらとは一線を画すものだ。

 10日間の全プログラムに現役のJALパイロットが対応し、7時間にわたる座学を2日間(計14時間)受けたうえで、FFSで5日間のフライトなどを行なう。定員は2名で、金額は税込み250万円。円高の時代ならば、海外で本物の自家用ライセンスを取れたほどの金額だ。

 もちろん、これはライセンス取得をめざしたツアーではない。実際にJALが訓練で使用し、国土交通省が実機に代わって訓練や試験を行なうことを認めたレベルDのFFSを使用するが、フライトタイムが正式な訓練時間として算入されることもない。ただ、パイロット訓練を「体験する」というだけのツアーだ。そんなツアーに定員を大幅に上まわる応募があり、抽選で2名の参加者が選ばれた。

大橋機長が作成したテキスト。操縦経験がない参加者のために、実際のマニュアルを参考にわかりやすく整理。このテキストを説明するオンラインのビデオ教材も用意された。
写真提供:JAL
FFSのセッションの前後には1時間ずつのブリーフィングが行なわれた。「ただ飛ばしてみました」ではなく、次に向けての課題や改善点などが指摘される。
ツアーで使われた767のFFS(手前)。国土交通省から最高位のレベルD認定を受けており、実機に代わって訓練や試験、審査を行なうことが認められている。

ツアー発案者である大橋機長の想い、それは訓練を通じて自分自身と向き合うこと

 ツアーの発案者であるJALボーイング767型機(以下、767)の大橋 篤 機長は、「子供の頃、私にはプロ野球選手や学校の教師などさまざまな夢がありました。そんな夢を実現した人たちを見ると、『なぜ自分はそこにいないのだろう』と思うことがありました。そして、これまで『夢を諦めた自分』を置き去りにしてきたことにも気づきました。そんな自分としっかり向き合うことで、ようやく今の自分を心の底から肯定することができるようになったのです」と語る。

 そしてこのツアーが、かつての「パイロットという夢」が「人生の錨」になっている人に向けて企画された。現役パイロットとともに訓練を体験することで心の錨を引き上げ、これからの人生をより輝けるものにしようというのだ。

 参加者の一人である斉藤範明さんは、大橋機長のメッセージが「まるで自分に向けて書かれたものではないかと思うほど心に刺さりました」という。若い人には理解できない感情かもしれないし、理解してほしくないとも思う。若い人には、「本気のパイロット訓練体験」ではなく、本気の(本当の)パイロット訓練をめざしてほしい。しかし年齢を重ねて、250万円ものツアー代金を支払える、いわば社会的には成功したといえる人であっても、飛行機を見るたびに「なぜ自分はあの操縦席にいないのだろう」と思うことはある。そんな感情に「ケリをつける」ことが、このツアーの目的である。

訓練では参加者が左席で操縦を担当し、現役の機長が右席で副操縦士役を務めながらサポート。さらに教官席にも現役の機長という豪華な顔ぶれ。
羽田ランウェイ34Lに着陸。この日は3回目のFFSだったが、前回指摘された点などもしっかりと改善されているなど、教官も驚くほど上達していたという。
参加者の斉藤範明さん。偶然ツアーの存在を知り、3日間考えたうえで、「こんな機会は二度とないかもしれない」と申し込んだという。

FFS訓練は計5日間。そして、参加者の心に刻まれたものとは

 待望のFFS訓練は7月に3日間、8月に2日間の計5日間にわたって行なわれた。この間にプッシュバックからタキシング、簡易的なATC、離陸から上昇、飛行機の操縦特性の体験、機内アナウンス、降下進入、着陸操作、タキシングおよびスポットインなどを実施。さらに最終セッションでは、教官のサポートを最小限に、副操縦士役の現役パイロットと協力して、羽田空港から伊丹空港へのフライトが行なわれた。こうしてすべての課程を終えた8月9日には修了式が行なわれ、機長からは修了証書が手渡された。

 ただひとつ疑問だったのは、これが本当に「心の錨をあげる」ことになったのかということだ。飛行機の操縦やパイロットという仕事の魅力を深く知ることで、逆に自分の人生を後悔することになりかねないのではないか。つまり、もっと重い錨を引きずることになってしまうのではないかということだ。

 しかし、もう一人の参加者であるAさんは、「訓練を通してパイロットという仕事の素晴らしさを実感するとともに、現在の自分の仕事についての誇りも感じることができました」と語ってくれた。大橋機長の想いは、しっかりと伝わったのである。

前例のないツアーを成功させた、左からジャルパックの室崎五郎さんと、田中景子さん、そしてJAL運航訓練部の筌口夏希さん。
ツアーを提案したボーイング大橋 篤 機長。
企画実現に尽力した石川 宗 機長。石川機長は767に乗務するかたわらで、運航訓練部価値創造室の室長も務めている。
本企画を実現させたJALボーイング767の大橋機長ら、そして参加者の心には“訓練体験”という言葉だけでは語れない想いがあった。座学からフルフライトシミュレーター(FFS)まで、10日間にわたるプログラム。かつて憧れたパイロットという夢を実現できなかった人たちに向けて、“本気”の訓練を提供した。