特集/本誌より

デハヴィランド DH106コメット - ジェット化への第一歩に刻まれた、尊い犠牲と技術的教訓(3)

特集「Jet Airliner Technical Analysis」

文:浜田一穂
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不幸な事故に泣いた従来型の胴体構造を刷新し、胴体を+5.64mの33.99mに大型化したコメット4(G-APDL)は1958年4月に初飛行。主翼に燃料タンクを増設したことで航続距離も延伸し、同年10月にはBOACのロンドン=ニューヨーク線に就航した。
Photo:Masahiko Takeda

連鎖する空中分解

 1953年5月2日、BOACのコメット1(G-ALYV)がインド上空で嵐の中を飛行中に空中分解し、乗員乗客43人全員が死亡する事故が起きた。インド政府の事故調査では、水平尾翼の桁の折損が直接の原因で、パイロットが乱気流の中で過大な操作を行なった可能性が指摘された。
 そして1954年の1月10日、決定的な事故が起きた。BOACのコメット1(G-ALYP)がローマを飛び立ってロンドンに向かう途中、地中海のエルバ島上空で消息を絶ったのだ。まもなく海上に破片が散らばっているのが発見され、機体は空中で分解し、乗員乗客35人全員が死亡したと認定された。
 BOACは事態を重大視し、ただちにコメット全機の飛行を停止した。しかし点検でも欠陥は見付からず、考えつく限りの安全対策が施された。G-ALYP(最後の二文字をもじってヨーク・ピーターと呼ばれる)の破片の回収が続いている中、BOACは3月23日には定期飛行を再開した。
 そのわずか二週間後の4月8日、南アフリカ航空にチャーターされたG-ALYY(ヨーク・ヨーク)が、ローマ空港を飛び立った後ナポリ近くの地中海に空中分解して落下した。コメット全機が再び飛行停止になった。
 ヨーク・ピーターの墜落までの全飛行時間は3681時間、ヨーク・ヨークは2704時間で、ふつうに考えれば破壊が起きるほどの金属疲労が進行しているはずはない。当初は成層圏の低温で機体構造が脆くなる可能性なども疑われた(ちなみに高速で飛ぶので摩擦熱で破壊したというのはとんでもない妄説だ)。また胴体構造に多用された金属接着の信頼性も疑われた。
 しかしBOACの稼働機から引き抜いたG-ALYU(ヨーク・アンクル)の胴体を、王立航空研究所(ファーンボロ)で与圧サイクル試験にかけたところ、合計の飛行時間が9000時間に達した段階で胴体に大規模な疲労破壊の兆候が現れた。主翼の上の胴体部分の客室窓の角からクラックが進行し始めていた。
 同じ頃地中海の海底から引き揚げられたヨーク・ピーターの破片から、胴体中央部分の上面から急速に破壊が始まったことが推測された。胴体中央部の外板がはじけ飛ぶように破壊され、次いで外翼と後部胴体が脱落して、機体はばらばらになって落下した。コメットの胴体中央部の中心線上には、自動方向探知機(ADF)のアンテナの窓が構造に開けられている。クラックはADFアンテナ窓の角から発生して、側面の窓へと延びたと推定された。
 1954年の11月までに前記のような推論の報告書がまとめ上げられ、コメット1の命運は完全に断たれた。
 コメット1のキャビンは内外の差圧が8.25psi(0.599㎏/㎠)で設計されている。1回の飛行ごとにこれだけの力が構造にかかり、疲労が少しずつ進行していく。
 もちろんコメットの構造は、就航している間には疲労が重大な破壊にまで至らないよう設計され、試験されていたはずだった。胴体の部分試験では1万8000回の飛行が保証されていた。
 しかし後からわかったことだが、コメット1の与圧試験の方法には致命的な誤りがあったのだ。
 コメットの構造はまず定格の約2.5倍の圧力をかけて、構造が破壊しないかどうか確かめてから与圧試験を受けた。ところが実際には最初に過大な力をかけたことで、圧縮残留応力が生じてかえって疲労には強くなってしまったのだ。与圧試験は実際の飛行状態を反映しないことになり、試験から割り出した構造寿命は偽りだった。

コメットの遺訓

 コメット1は12機、コメット1Aは10機が生産された。RRエイヴォンを搭載する航続距離延長型のコメット2は1953年8月に進空していたが、もちろんこれも飛行停止になった。胴体を延長したコメット3はパン・アメリカン航空が発注していたが、1954年7月に1号機が進空しただけに終わった。
 15機が生産されたコメット2は、問題の胴体構造を根本的に改修して、イギリス空軍用のコメットC2に生まれ変わった。行く当てのない機体を空軍が引き取ったと言っても良いだろう。
 それでもデハヴィランド社はコメットを諦めなかった。胴体の構造を根本的に再設計して疲労破壊の可能性を払拭し、エイヴォンを搭載、胴体を5・64mも延長したコメット4で再起を図った。コメット4は74〜81席で、当初の乗客数の二倍近い。
 コメット4はBOACから受注して生産に入り、1958年4月28日に初飛行した。BOACに就航したのは同年9月30日のことだった。
 その1か月後には707-120が就航する。1年後にはDC-8-10も就航する。より高性能で、快適で経済性も高いライバルに、1940年代末の基本設計のコメット4が敵うはずもなかった。BOACでさえ707を発注して、1965年にはコメットの運航を終了することになる。
 コメット4/4A/4B/4Cはそれでも合計74機が生産されたが、コメット5以降の型はすべて中止された。最後のコメット4Cの2機は実際にはHS801ニムロッドの試作機へと転用された。
 コメットは商業的には大成しなかったし、技術的にも重大事故を引き起こしたが、現在のエアライナーの安全性はコメットとその乗員乗客の尊い犠牲の上に築かれたものであることを決して忘れてはならない。コメットの事故を教訓に、クラックを生じにくい、万一クラックが発生しても致命的な破壊に至らない構造の設計手法、構造寿命を確実に見積もれる試験方法が確立されたのだ。
 コメット1の角の尖った四角い窓と、現代のジェット・エアライナーの角を丸めた窓を見比べるだけでも、コメットの事故以降の設計手法の進歩が見て取れる。クラックが構造の切り欠きの角の部分から発生し発達するというのが、コメット1の事故の貴重な教訓の一つだ。
 ところでBOACが運航を停止した後も、コメット4はさまざまな中小エアラインで使用され続けた。中でもイギリスのダン・エアは中古のコメットを買い集めて、1960年代半ばから70年代の半ばには約50機を運用していた。定期航空でコメットを飛ばしていたのもダン・エアが最後で、1980年11月に最後のコメットをリタイアさせている。
 筆者が航空評論の道に入ったのは1970年代の中頃で、同業の先輩達が「コメットが見たかったらいまのうちにダン・エアに乗っておいたら良い」などと言っていたのを覚えている。しかし筆者はとうとうコメットには乗らずに終わった。
(完)

1949年初飛行/1952年初就航/製造機数114機

※ この記事は本誌連載「Jet Airliner Technical Analysis」、小社刊「ジェット旅客機進化論」より抜粋、再編集したものです。

ジェット旅客機進化論

ジェット旅客機進化論

著者:浜田一穂 著
出版年月日:2021/09/27
ISBN:9784802210706
判型・ページ数:A5・548ページ
定価:2,860円(税込)

イカロス出版 本書紹介ページ

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