特集/本誌より

デハヴィランド DH106コメット - ジェット化への第一歩に刻まれた、尊い犠牲と技術的教訓(1)

特集「Jet Airliner Technical Analysis」

文:浜田一穂
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de Havilland DH106 Comet 1
第二次世界大戦の勝利を確信した英国の先進的航空思想が昇華し、世界で初めて実用に供されたジェット旅客機。そして悲惨な空中分解事故を重ねる魔の旅客機として、短期間で栄光と失墜を残酷なまでに味わい尽くした存在がデハヴィランド・コメットであった。野心に満ちた歴史的エアライナーは、一体どこでつまづいたのか。問題はターボジェットの心臓ではなく、胴体の構造にあった。
Photo:de Havilland

ジェット時代の彗星

 コメットは最初に造られたジェット・エアライナーではないが、ジェット・エアライナーとしては最初に量産されて、最初にエアラインに就航した。
 コメットが現役エアライナーだった頃を知っているのは、もうずいぶんと年配の人になるだろう。昭和25年生まれの私でも、コメットが定期便で飛んでいた時代を覚えてはいるものの、コメットの全盛時代は知らない。
 コメットが世界でも最初のジェット・エアライナーとして華々しくデビューした当時を知っている人は、コメットの悲劇も覚えているはずだ。就航開始からわずか2年でコメットは重大事故を連発、運航停止になったのだ。設計を根本的に変更した改良型コメット4が再就役した頃には、すでにボーイング707とダグラスDC-8が登場していた。これら新世代のジェット・エアライナーを前にコメットは競争力を失い、合計して114機しか生産されずに終わっている。
 商業的には成功したとはいえないコメットだが、世界で最初の実用ジェット・エアライナーというタイトルは誰にも奪えない。
 いまの若い人はコメットの名前を、BAEニムロッド洋上哨戒機の原型としてしか聞いたことが無いかもしれない。ニムロッドとロッキードP-3オライオン、どちらもエアライナーを原型として成功した哨戒機だが、民間機時代に重大事故を連発、エアライナーとしては大成しなかった点が共通している。

Comet 1
オリジンのコメット1は1949年7月27日に進空。写真のBOAC機、G-ALYP「ヨーク・ピーター」は1954年1月10日に地中海上空で空中分解したその機体である。やがて海中から引き揚げられた破片は、破壊の原因を克明に語った。
Photo:de Havilland

ブラバゾン委員会

 コメットの歴史は第二次大戦中にまで遡ることが出来る。
 1943年といえばナチス・ドイツと日本の勢いが完全に止まり、各戦線で連合軍側の猛反撃が始まった段階だが、イギリスはもう戦勝を確信していた。この年の2月、イギリスは戦争に勝った後に必要になってくる民間エアライナーの長期構想について検討を開始しているのだ。
 この構想を検討する委員会は、委員長のブラバゾン男爵(ロード・ブラバゾン)の名を取って、ブラバゾン委員会と呼ばれている。ジョン・モア=ブラバゾン(1884〜1964年)は1909年イギリスで最初に飛んだパイロットの草分けで、運輸大臣や航空機生産大臣を務めたこともあった。
 ブラバゾン委員会が二年間かけてまとめ上げたのは、大戦が終わった後の世界では5種類のエアライナーが必要になるだろうとの予想だった。短距離から長距離までの各機種の中でも、もっとも技術的に進んでいたのがタイプⅣと名付けられた機種で、なんと中長距離路線向けのジェット・エアライナーであった。イギリス最初のジェット戦闘機グロスター・ミーティアが初飛行したのが1943年の3月のことだから、この時点でジェット・エアライナーを想像するというのは相当に先進的なことだった。
 もっともこの1944年初めの時点で設定されたタイプⅣは、旅客数たったの14人で巡航速度450マイル/時(720㎞/h)、航続距離700〜800マイル(1127〜1287㎞)、総重量3万ポンド(1万3608㎏)というから、現在の目で見ればエアライナーというよりはビジネス・ジェット機クラスの機体だった。さすがのブラバゾン委員会でも、ジェット機なんかに乗りたがる物好き(あるいは金持ち)が1日に何百人もいるとは思わなかったのだろう。
 ブラバゾン委員会の叩き台設計案は、紡錘形の胴体に直線翼のカナードと主翼を組み合わせ、3基のジェット・エンジンを後部胴体に埋め込んだものだった。
 タイプⅣは1945年の2月、すなわち大戦が終わる数か月前に、デハヴィランド社が開発を担当することが決まった。DH106と名付けられた設計案は、当時デハヴィランド社が高速のジェット機に最適と信じていた無尾翼機形態で、前縁後退角40度の主翼の下面に、4基のターボジェット・エンジンを埋め込んでいる。乗客は24人で、総重量は8万2000ポンド(3万7194㎏)となっていた。
 1946年5月には設計案は後退した尾翼付に発展し、供給省(軍民の航空機の開発を統括するイギリス政府の省庁)に提示された。乗客36人で総重量は9万3000ポンド(4万 2184㎏)と、設計はかなり拡大している。巡航速度は535マイル/時(861㎞/h)となっていた。
 デハヴィランド社は1946年9月に供給省からDH106の試作契約を受けたが、最終的には主翼の前縁後退角は20度へと減らされ、尾翼には後退角が付かなくなった。巡航速度は505マイル/時(813㎞/h)に低下したが、離着陸性能や低速時の操縦安定性が改善された。胴体は延長され、離陸総重量は10万ポンド(4万5359㎏)に増大した。
 エンジンとしてデハヴィランド社では、ロールスロイス社が開発中の軸流式のAJ65(後のエイヴォン)を望んでいたが、当面は自社製の遠心式のゴーストを積むことになった。
(続く)

※ この記事は本誌連載「Jet Airliner Technical Analysis」、小社刊「ジェット旅客機進化論」より抜粋、再編集したものです。

ジェット旅客機進化論

ジェット旅客機進化論

著者:浜田一穂 著
出版年月日:2021/09/27
ISBN:9784802210706
判型・ページ数:A5・548ページ
定価:2,860円(税込)

イカロス出版 本書紹介ページ

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